施餓鬼当日

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今日は、昨日に続いて報恩寺の「施餓鬼」のお手伝いをしました。行事の進行中はカメラマンをしていましたが、普段写真を撮る癖がないことと一眼レフを使ったことがないこともあってブレブレの写真ばかりになってしまいました。写真の練習もしていきたいと思います。
僕の実家には大きめの仏壇がありますが、僕自身が仏教を信仰しているわけではありません。今回の施餓鬼に関しても、内容は説明してもらいましたが実感が伴ってはいませんでした。しかし、お寺には先祖を悼むために多くの人が集まりました。僕がお話した方は「こうして元気でいることを感謝しにくる」とおっしゃっていました。
僕は両親はもちろん、一緒に暮らしていた祖父母も健在で祖先を思うということがいまいちピンときません。なので憶測になりますが、先祖を思うことで、その地に自分のルーツを感じ、そこで生きていくことを当然だとおもうのかもしれません。昔は引っ越しなんて今のように簡単にできなかったでしょうからなおさらです。そして宗教という同じものを信じ、同じ文化を共有する「集団」になることで互いを思いやれたのだと思います。
施餓鬼の後の片づけで、手伝ってくださった地域の方々とお茶をご一緒させていただきました。皆さん昔話に花を咲かせていて、小学生時代のお話までありました。とても僕が入れるような内容ではなく、皆さんが重ね、共有してきた歴史を感じました。それだけではなく、皆さんは浄土宗をはじめとする文化も共有しています。
今、そういったものが現代社会にあるのだろうか?と思いました。今では、色んなところから色んなものが入ってきています。そして、趣味も好きなものも得意なことも日課も人それぞれ違います。好きなものを同じくする同志はネットで簡単に見つけられますが飽きれば切れてしまいます。これを文化を有しているといえるだろうか?そして生まれてからお爺さんになるまで近くに住んで関わり続ける人なんてこれからいるのだろうか?そんなことを思いました。
文化という極端な言い方をすれば「縛り」が無くなり生活の場所を変えることへのためらいが減ります。こういうことも人が田舎から離れていく一因なのかなと思いました。

2016-08-18 | Posted in 7期生 伊吹 日報Comments Closed 

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